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わらび新聞

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【蕨歳時記】 暁斎の夢を託せし花並木(復刊号)

南町の河鍋暁斎記念美術舘が建てられたのは、昭和53年。江戸末期の画家・暁斎は当時から国際的には著名だが、、日本では忘れられかけていた。曾孫の楠美さんが、眼科医として働き、独力で造り上げた。今では、多くの見学者が訪れるようになった。
南小の脇には、小さな流れがしつらえてある。用水路だった名残だ。この水路、今は暗渠になってしまったが、河鍋一家が移転してきた頃は、きれいな流れだったという。
暗渠を挟み、今年も200本の見事な桜並木が市民を楽しませてくれた。楠美さんは「蕨一中の国語教師だった父・重人が晩年、昭和33年頃、いずれは暗渠になる。それでは特色がなくなる、と言い、付近の若者と語らって、桜の苗木をせっせと植え続けた。春が来ると、父の形見と涙が出そうになる」と回顧する。
先を読むことの出来た先人、記憶している人は数少なくなったが、年々歳々花は咲き続けるだろう。

 

【蕨歳時記】 欅若葉まちの繁栄見詰めをり(復刊2号)

蕨駅西口に聳(そび)えるように植わっている欅(けやき)の大樹。桜が散ったあと、みずみずしい若葉が、朝夕出勤する市民の目を楽しませている。威風地を払い市のシンボルのようだ。

ところで蕨駅は、明治16年上野から熊谷までが仮開業した東北本線(当時は、日本鉄道株式会社)の主要駅として、26年7月16日開設された。当初は上野・王子・浦和・上尾・鴻巣駅が出来、次いで18年赤羽・大宮・桶川。それに続いて蕨。古い駅なのである。西口階段脇の記念碑に「明治二六年六月二六日記念碑を建設す。しかるに関東大震災で倒壊、昭和一七年七月再建す」と記されており、歴史を感じさせる。

この大きな欅は、もともと南町の桜並木のそばにあったという。駅前の整備が終わった記念に、もっとも樹形の優れたものを選び抜いて、移植したものだと聞いた。クリスマス・シーズンには、電飾が明るく周囲を照らし、風物詩となっている。椋鳥のすみかともなっていた。

4月号での南町の桜並木について一言付け加える。ソメイヨシノは寿命が70年ほど、南町の保存会の手によって整備され、植え替えられてきた。伐採されたものもあるが、一部は錦町などへ移植されているという。こうした人々の絶え間ない努力によって、憩いの場所が作り上げられてきたのだ。

 

【蕨歳時記】 梅雨晴れ間補助輪外す子らの笑み(復刊3号)

大荒田の交通公園には、自転車安全運転学校が併設されている。天気の日、母親に連れられた子供達が交差点の渡り方や信号への対応を身体で学んでいる。連休中に特訓をしたのだろうか、嬉々として自転車の補助輪を外している。
一角には、SL(蒸気機関車)が柵の中に展示されている。日本車輌製造により、終戦直前の昭和二十年五月十日作られ、相模線(茅ヶ崎−橋本)を走っていた。三十五年には貨物用に転用され、四十年に使命を終えたとある。

そして、走り続けた七千三百二十五日間、地球を百三十八周する五百五十六万`を走ったと記されている。残念なことに、製作された場所は記されていない。いまは芝園団地になってしまったが、日本車輌の蕨工場では、初期の新幹線車両も製造されたと聞く。
蕨市は当時、工業都市でもあり、時代の先端を走っていたのだ。公園では、そんな歴史も知らない子供達が歓声を上げている。元気そのものの姿を見ていると、いじめや「公園デビュー」などに悩む母親の苦悩を吹き飛ばしているようだ。

 

【蕨歳時記】 菜園豊か新幹線の見えるまち(復刊4号)

錦町の外れ、戸田市と接する新しい町並みから、新幹線が走っているのが見える。まだ空地がかなり残っていて、区画された家庭菜園となっている。休日ともなれば、親子連れや老夫婦が、せっせと農作業に没頭している。手作りの無農薬で新鮮な野菜はきっと美味しいに違いない。

梅雨空ももう終わりだ。早くも強烈な光とともに、真夏日が続いている。5月にテレビ東京で蕨市が「緑多い町」として紹介されたが、こんな菜園もその一翼を担っている。 近くには、大日本印刷の工場があるが、近く撤去されるという。京浜東北線と埼京線に囲まれた蕨市は、住宅都市として活路を見出しつつある。この工場跡地も住宅団地に変わるのだろうか、この辺の風景も一変してしまうかもしれない。

傍らに馬頭観音群(ジンガド)が四基立っている。江戸時代、農民が家族同様にしていた馬の供養のために建立したもの。風化してお顔も定かではないが、新幹線がめまぐるしく走り続けているまちで、庶民の安全を祈る観音に香華は絶えない。

 

【蕨歳時記】 (復刊5号)
星まつり十六光年の恋路かな

今年の蕨の機まつりは雨に崇られなかった。牽牛星と織女星の間は光の速度でも、16年かかるというが、全宇宙の規模からすれば、ごく近い存在。そんな意味を込めて作句した。
ところで、今年機まつりのフラッグに「七夕」の文字が加わった。「機」(はた)という字が読めない若者が増えているからだという。となれば、このまつりの所以も伝わっていないかもしれない。江戸末期から、織物の町として栄えた蕨なのだから、他の町の七夕とは違い、本当に由緒正しいまつりなのだ。

文政9(1826)年、塚越に祀られている5代目高橋新五郎の妻が「高機渡世を始めなさい」との夢のお告げを受けたのがきっかけ。10数年後には機屋100戸を数えるに至り、文久元(1861)年には、6代目が横浜に支店を出した。農業収入だけが頼りだった人々に現金と仕事場を与え、蕨は県南の一大工業地となった。

勿論江戸に近いという利点もあっただろうが、この隆盛を支えたのは、積極的に技術革新を進めたからだ。当時英国からの輸入綿糸は国産の綿糸に比べて極細に仕上げられていた。反面、かなり不良品も混じっていたらしい。

6代目はそれに目を付け、横浜での商品検査ではねられた糸を仕入れ、2本の糸をよりあわせて使い丈夫な綿布を作り上げた。この織り方は、明治初年から大流行した「縦縞」を織るのにも利点があり、蕨の「双子織り」として、世界的にも知られるようになった。

時代を先取りする進取の気性。蕨にとって機まつりは、単なるイベントではない。先人のたくましい精神を想起する機会なのだ。

(ペン画は中央在住・丸山敏雄さん。句と俳句は廣田耕司)

 

【蕨歳時記】 (復刊6号)
おねだりはあの昔菓子地蔵盆

8月24日夕、新装なった三学院の地蔵堂前で、地蔵盆の縁日が開かれた。7時からは大勢の僧侶によってが護摩供が行われ、熱心に祈りを捧げる人で賑わった。お地蔵さんは、平安時代以後盛んな信仰の対象となり、観音様と並んで庶民にとって一番親しみやすい仏様となった。

特に六地蔵は、ほとんどの街道に面して安置され、赤い前垂れを寄進する人が今も絶えない。人が亡くなると、魂は四十九日の問に、中陰(中有とも)の世界で、生前の所業によって判決を受け、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のいずれかに生まれ変わるという。この六道のすべてを手分けして救いの手をさしのべてくれるのが、この六地蔵さんなのだ。

ところで、ふと思い出した。グリム童話の「白雪姫と7人の小人」の人形を買うと、小人は6人しか付いでこない。もう一人は、自分自身だという。こうして物語の中に童心に帰って入り込むのだ。

古来、7という数字は聖なる数とされてきた。バイブルでも、神は天地を創造するのに6日かけ、7日目に休息したとある。だから日曜日は安息日なのだ。いささかこじつけがましいが、この殺伐とした世の中、皆さん、7人目のお地蔵さんになった気持ちで、明るい世にするため、社会活動に手をさしのべては如何だろうか。

(ペン画は「三学院のイメージを合成」。中央在住・丸山敏雄さん。句と俳文は廣田耕司)

 

【蕨歳時記】 (復刊7号)
天高し宿場醒めよと時の鐘

国道17号線と中仙道・蕨宿の交差する街角に北町交番と「ふれあい広場」が出来たのは、平成8年の宿場まつりの日だ。説明板には蕨宿の歴史が簡潔に語られている。「江戸初期に板橋宿に次ぐ宿場として作られ、南北10町(1090m)、用水堀に囲まれ、2軒の本陣を中心に賑わった。7月11日と12月26日の2回盛大な市が開かれた」と。

往時は大名行列の通り道。150年前には将軍家へ御降嫁なさった皇女和宮もお通りになった。こうした大名行列を再現したのが、11月3日の「織姫道中パレード」だ。広場の壁面に今昔2枚の陶板画がある。

広場のシンボルはかわいい火の見櫓の形をした時計台だ。昔あったという3つの火の見を偲ばせる。平日はもちろん土日ともなれば、10時から6時まで定時に鐘が鳴り、人形が櫓を上り下りする。今流行のからくり時計の先駆けでもある。

「蕨よ目覚めよ」「往古の繁栄を取り戻せ」−覚醒を促す響きが今日も秋空に流れている。

(ペン画は中央在住・丸山敏雄さん、句と俳文は廣田耕司)

 

【蕨歳時記】 (復刊8号)
織姫もサンバも笑顔宿場まつり

11月3日の宿場まつり。織姫道中や仮装行列、サンバで賑わった。この行事が始まったのは、そう古いことではない。商業活動が停滞し始めたことを危惧した商店の若手経営者や後継者16名が集まり、青年部会を結成したのが昭和58年。

「ここは中仙道ではないか」。江戸時代は中仙道69宿のうち5本の指に入る大きな宿場、いまも本陣跡や風格のある古い家が現存、庚申塔など身近な文化財や緑が豊かだ。いわば、本物の歴史を持っている地域ではないか、こんな発想からスタートした。

関係者は「ゼロからのスタートでした。とにかく市民の方々が多く参画してくれるような「創造的なまつり」にしたかったので、"きてみて、みてみて、やってみて"というキャッチフレーズをつけました」という。

目玉の『織姫道中パレード』は、蕨が江戸末期から明治・大正・昭和と綿織物の一大生産地、集積地、機業地だったこと。成人式発祥のまちであること。こんな特性を結び付けて始められた。今でこそ、大きな行事に育ったが、発端は少数の若者の冒険だった。

(ペン画は中央在住・丸山敏雄さん、句と俳文は廣田耕司)

 

【蕨歳時記】 (復刊9号)
四海波祈りを込めむ歳の市

今年も17日和楽備神社で「酉の市」が開かれ、農産物を求める主婦や
玩具を見て回る親子連れで賑わった。この日は干支では「寅」。いつからか、
「歳の市」と混同してしまったようだ。「酉の市」は日本武尊を祀った鷲神社で、
11月の酉の日に行われる祭礼である。浅草の鷲神社が有名だが、関東一円の
総社は埼玉県鷲宮町の鷲神社である事は忘れられているようだ。

「歳の市」は昔、正月用品を整えようと、農民がその年の収穫を持って市に
集まってきた事に始まる。蕨では中仙道で12月26日に大きな市が開かれて
いたという。

正月を前に、日頃口に出来ない高級な鮭や数の子と言った食材や、新しい
食器や道具などを手にする一年にたった一度の機会だった。商業の発達につれて、
市は専門化し、羽子板市やべったら市などが分化していった。

いまは百貨店やスーパーで、なんでもいつでも手に入る。が少し前までは、
大都会は別にして、どんな必需品でも年一回の市まで我慢せざるを得なかった。
そんな簡素な生活を思い起こすに良い時かも知れない。

ところで今年のように酉の日が三回ある年は火事が多いと云われる。
殺伐としたニュースが飛び交った今年、来る年の幸を祈らずにはいられない。

(ペン画は中央在住・丸山敏雄さん、句と俳文は廣田耕司)

 

【蕨歳時記】 (復刊10号)
風寒く朝日に映える白き富士

今年の元朝は薄曇りで、初日の出は見られなかったが、私は毎年深夜の初詣のあと、仮眠して、マンションの屋上から拝むことにしている。そしてほぼ反対側の空には、富士が紅く染まり、次第に真っ白な姿に変わっていくのである。

夕刻、晴れて風の強い日であれば、富士に沈む太陽が、ひときは大きく光彩を放ち、中天の雲までが茜色に輝く。高い建物が増えて、平地からは富士を見ることもなくなったが、富士見という知名が残っているからは、昔は、そこかしこから大きく富士が見えたのだろう。

私事にわたるが、30年前沖縄駐在から蕨に戻り、ここに入居した時は富士はほとんど見えなかった。年に2回、正月と8月15日だけ姿を現したのだ。それほど空気が汚れていた。都心に勤めていたが、2ヶ月ほど咳が止まらなかった。

その後、大気汚染対策も進み、風が強く晴れた日なら、富士が見られるようになった。力を合わせれば、環境を改善することもできるのだ。まだ遅くはない。もっと緑を増やし、住みよいまちづくりを進めさえすれば。

(ペン画は中央在住・丸山敏雄、句と俳文は廣田耕司)

 

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