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中山道蕨宿が開設されてから、400年。六十九次の旧宿場町(東海道と重複している草津と大津を加えて)の各地で、記念イベントが予定されているが、蕨市ではそのトップを切って、歴史民族資料館で「中山道と蕨宿」展が5月12日まで開かれ、多くの市民や中山道を歩き通して見ようというツアーの方々が訪れた。
4月6日には佐藤直哉学芸員が記念講演を行なった。その中から、蕨宿の特殊性を拾い上げてみた。(文責・編集部)
謎の1「何故区画が整然としているのか」
家康が街道を整備したのは、一般人の旅行を便利にするためではない。大名を締め付けるために取り入れた参勤交代を円滑にするためであった。
蕨宿の1つの特長は区画が整然としていること。これは、比較的低地にあるこの道筋に、盛り土をし、新たな町として計画的に造成した可能性が高いことを示している。
謎の2「用水堀をめぐらせているのは何故か」
宿場の周囲を用水掘で囲んでいるのは、東海道の島田宿以外にはあまり例がない。これまで俗に遊女や織物工場の女工が逃げ出すのを防ぐためとも説明されてきた。
しかし跳ね橋(唯一徳丸家に残っている)があるから、逃げようとすれば容易なはず。やはり侵入防止が目的ではないか。跳ね橋は裏堀が無ければ作れない。むしろ用水と裏堀で防御したのだろう。
それにしては、常時木戸が設置されていたという記録もない。和宮のような要人が宿泊した時のみ、木戸を設けたのだろう。
謎の3「板橋、浦和両宿と近すぎるのは何故」
蕨宿は中山道の二番目の宿。板橋から9キロ、浦和から5キロ。当時の旅行者は江戸を立って、その日の内に上尾か桶川まで歩いている。中途半端な立地といわざるを得ない。
どうやら大雨のあとなど、荒川・戸田の渡しが川止めになった時の対策だったのではないか。浦和まで戻るのは遠すぎる。現に本陣が2つある熊谷、本庄も川のそばに立地している。
謎の4「本陣が2つあるのは異例だ」
中山道六十九次のうち、本陣が2つあるのは8ヶ所に過ぎない。前項で説明したように、川止めになったとき、大名の宿泊がかち合うおそれがある。その時には、蕨宿の場合、石高の高い方が「一の陣」、次が「二の陣」に泊まったのだろう。
本陣には庶民は泊まれなかった。もう1軒ある脇本陣には大名がいないときに庶民も利用できた。ところで、蕨宿には幕末、旅籠が23軒。食事が付かない木賃宿と一泊二食付きの平旅籠が13軒。女性のサービスを受けられる飯盛旅籠が10軒と記録されている。一文を6.6円と計算すると、木賃は一泊330円、平は1300円、飯盛は3300円になる。
謎の5「どちらが上、下なのか」
蕨の場合、京都側が「上」、江戸に近い方が「下」となっている。「上方」とか「東下り」という表現からも、こうした呼称が通例と考えられていた。
ところが中山道では、京都側を上というのが二十六宿、江戸側を上というのが三十二宿と分かれている。軽井沢宿を境に、呼び方が違うのだ。浅間山の分水嶺を境にしたのでは、との説もあるが、理由はいまだ判明していない。
(文責・編集者)
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